三浦環の世界

世界で最も著名な日本人オペラ歌手
世界的に最も権威のある音楽文献として知られている「グローヴ・オペラ辞典」がある。その中で日本人としてただ一人三浦環の名前が掲載されてる。それほど、三浦環に世界の音楽史上において著名なオペラ歌手である。
三浦環のオペラ人生は約40年であるが、その半数は欧米で活躍し、世界各都市で公演を行っている。記録に残っているだけでも「マダムバタフライ」プリマドンナとして、2000回も舞台に立ち、歌い続けた。
作曲家プッチーニから「世界最高のマダムバタフライのプリマドンナ」と絶賛された三浦環は、ロンドンの名門オペラ劇場“オペラハウス”で「マダムバタフライ」の初舞台を踏んでいる。1915年、日本でいえば大正4年の事である。
三浦環は1913年に医師である三浦政太郎と結婚し、翌年、夫のドイツ留学とともにベルリンに渡った。「本場のヨーロッパでオペラの勉強がしたい」という夢が実現し、リリー・レーマンに師事した。
ところが第一次世界大戦が勃発し、翌年の1914年にロンドンに移った。ここでチャンスが訪れたのだ。イギリスの誇る指揮者、サー・ヘンリー・ウッドのテストを受けて認められ、アルバートホールの舞台に立てるようになった。このホールは23,000人は収容できるというロンドン最大のホールで、ロンドン交響楽団の演奏、名オペラ歌手のアデリーナ・パティも出演するという音楽会であった。ここで三浦環は「リゴレット」のアリア「慕わしき御名」を熱唱した。歌い終わると大きな拍手とアンコールが続き、「さくらさくら」「ほたる」の2曲を歌った。
この日本人女性のデビューの模様は、各国の新聞特派員によって世界に報道された。ロンドンの新聞には「マダム・ミウラはメルバやカルヴェにもひけをとらぬ美しい声と芸術性をもった歌手である」と絶賛の記事が掲載された。
そして翌年ロイヤル・オペラ・ハウスで「マダムバタフライ」のプリマドンナを演じたのである。イギリス国王、ジョージ5世も臨席して、三浦環の清澄な声と変化する蝶々さんの性格を見事に表現して、最大級の拍手で大成功をおさめた。これが「マダム・バタフライ」プリマドンナ・三浦環の世界デビューとなったのである。
まもなくアメリカに渡り、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場に招かれ、世界的テノール歌手、エンリコ・カルーソと「マダム・バタフライ」に共演した。
三浦環は20年間、欧米で活躍したが、アメリカが16年間と最も多く、日本の“音楽大使”としてホワイト会うすも訪れている。第一次大戦が終了した1918年には、ニューヨークのマジソン広場で祝賀会が行われ、ウイルソン大統領が手を取って振袖姿の三浦環をステージに上げ、最大の拍手と声援を浴びた。
その後、世界各国のオペラ劇場に出演し、一時帰国した日本でも公演を行った。
このように三浦環は「マダムバタフライ」プリマドンナ、国際的オペラ歌手として世界的な評価と名声を受けたのである。
三浦環略年譜
| 1884年 | 1歳 | 2月22日、父・猛甫と母・登波の長女として東京府京橋区弓町に生まれる。 |
| 1886年 | 3歳 | 藤間流の日本舞踊を習い始める。 |
| 1889年 | 6歳 | 長唄を住吉医師に、箏曲は山田流を習い始める。 |
| 1897年 | 14歳 | 東京女学館に入学、音楽担当の高木チカの勧めで上野の音楽学校を志す。 |
| 1900年 | 17歳 | 東京音楽学校入学、滝廉太郎にピアノをユンケルに声楽を習う。 |
| 1903年 | 20歳 | 日本人による最初のオペラ「オルフェオ」にエウリディーチェ役で出演。 |
| 1904年 | 21歳 | 東京音楽学校卒業後、研究科に進む。授業補助として声楽を担当、山田耕作は当時の教え子。 |
| 1911年 | 28歳 | 新設の帝国劇場歌劇部で声楽指導に当たる。「胡蝶の舞」に出演。オペラ「カバレリア・ルスティカーナ」を原語で上演。 |
| 1912年 | 29歳 | サルコリーとの二重唱を「アメリカン」レーベルに録音、日本人初の洋楽レコードとなる。 |
| 1913年 | 30歳 | 三浦政太郎(後に医学博士)と結婚。 |
| 1914年 | 31歳 | 夫とベルリンへ。第1次世界大戦勃発でロンドンへ逃れる。アルバートホールで「リゴレット」のアリアを歌いデビュー。 |
| 1915年 | 32歳 | ロンドンオペラハウスで「蝶々夫人」の初舞台。大好評を博し、国際舞台へのスタートとなる。以後、20年間アメリカを中心に20年間、世界各都市で公演。 |
| 1918年 | 35歳 | ニューヨークのメトロポリタン歌劇場での赤十字音楽会に招かれ、カルーソら一流歌手に加わり「蝶々夫人」のアリアを歌う。 |
| 1920年 | 37歳 | ニューヨークのレキシントン劇場にて「お菊さん」に出演。2月渡欧、モンテカルロ歌劇場、テアトロ・コスタンチ(現ローマ歌劇場)をはじめ、イタリアの各都市で「蝶々夫人」を主演。4月プッチーニの招待で、トレ・デル・ラーゴの山荘を訪問。 |
| 1924年 | 41歳 | 南米を巡演。 |
| 1925年 | 42歳 | アルド・フランケッティ作曲「浪子さん」をシカゴオーディトリアで世界初演。 |
| 1928年 | 45歳 | カーネギーホールで「三浦環独唱会」。 |
| 1935年 | 52歳 | イタリア、パレルモで「蝶々夫人」2000回目の公演。 |
| 1936年 | 53歳 | 歌舞伎座で「蝶々夫人」日本発演。以後、国内にて曲目多彩な公演を精力的に催す。 |
| 1946年 | 63歳 | シューベルト「美しき水車小屋の娘」独唱会。昼夜2回。全曲を唄い終え聴衆に思い出を語り「ホームスイートホーム」を歌う。これがステージの絶唱となる。5月26日未明、東京帝大付属院で腫瘍のため死去。享年63歳。 |
| (参考/田辺久之著「考証 三浦環」より) |
